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「批判」という行為について、良くない (あるいは悪い) イメージを持っている人は少なくないようです。
よく聞かれる意見として、「批判は何も生み出さない」「批判をするなら対案を出せ」といったものがありますが、この主張は本当に正しいでしょうか?
■批判は非生産的か?
「批判」という行為の目的は、問題 (悪いこと・良くないこと) の原因の所在を指摘することです*1。
無論、誤った批判もあるわけですが、それらの指摘からも「(他人から見て) 問題がありそうに見える」箇所を知ることで、問題の在処を突き止めるヒントにはなるでしょう。
いずれにせよ、問題がどこにあるか分からなければ、それを解決することはできません。
従って、問題点の指摘 (=批判) は、モノゴトの改善に欠くことにできない「生産的」な行為だと言えます。
■対案を出すのは誰の仕事か?
問題の在処が判明したならば、次に為すべきはそれに対する対処です。
ところで、この「対処」が誰の役目かと言えば、それは当事者 (製作・施行する人) に他なりません。
批判をする人が改善策・対案を出してくれれば、それはありがたいことですが、それを強要することは筋違いです。
一般に、指摘された問題の存在と性質は、それに対する改善策の有無とは無関係。
「対案がないなら批判をするな」という姿勢は、問題解決のヒントを捨ててしまうことにつながります。
■気分を害する前に
誰しも批判されるとのは気分の良いものではありませんが、これにいちいち腹を立てていても詮無きこと。
不快な批判も、その内容のみに着目して脳内変換 (例: 「xxxはyyyがクソ」→「xxxはyyyを直せば良くなる」) して、有効に活用してしまいましょう。
また、批判の内容にはそれ発した人間の知識・理解・洞察力のレベルが如実に反映されるもの*2。
的確な批判を行える人物には一目置いておくと、後々の利益につながります。
批判に対して頭に血を上らせる前に、これを相手の能力を測るモノサシとして使ってみるのも一興かと思います 。
- *1
「問題の所在を指摘すること」を目的としないならば、それは批判ではなく「誹謗」「中傷」「非難」あるいは「不快感の表明」のいずれかです。
- *2
それ故に、本来ならば、批判「される側」よりも批判「する側」の方が、大きなプレッシャを感じる必要があるわけですが……。
担当: 成田 (岡目八目)