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メデューズ号の筏

gyoda

この記事は1年以上前に書かれたもので、内容が古い可能性がありますのでご注意ください。

今回は「西洋美術」という観点から、最近思うことを書いてみます。
会社で必ず読めと言われている「ハッカーと画家」という書籍があるので、絵画の話も少しはブログに出した方がいいのかな、なんて思ったのがきっかけ。

絵画と言っても初期キリスト教美術から現代美術まで幅広くあるので、今回は一つ表題の「メデューズ号の筏(いかだ)」という絵画を中心に話を展開してきます。

メデュース号の筏

複雑に絡み合った身体を理想的な三角構図を描いたジェリコー唯一の傑作。
見ての通り「遭難」を描いた作品なのですが…
遭難だとしたらなんかおかしいところがありませんか…?

・遭難してるわりにはマッチョすぎ
・誰も怪我をしていない

この2つはどう考えても不思議ですよね。
でもそれは西洋美術の様式からしたら当然のことで、この当時、絵画の評価点として「肉体美」と「構図」に視点がフォーカスされていたからなのです。

特に「肉体」が複雑に重なり合う構図は、光が激しく交差したり、細部までの身体への理解が無いと描写が難しく上手く描ききることは画家として技術を魅せる格好の的でもあるんです。いわゆる古典主義ですね。当時は風俗画などの人体描写・宗教画以外の作品は「二流の作品」と言われ、あまり重視されなかった面もあります。

では、このジェリコーの「メデューズ号の筏(いかだ)」当時のサロンの評価はいかほどかというと…

評価は散々。

何故ならメデューズ号の筏(いかだ)の遭難事件が実際にあったことであり、フランス復古王政時代の失政のひとつであったので、「単にセンセーショナルを狙っただけの作品」と揶揄されたのが理由のひとつです。当時の絵画はクライアントが居て、意向に従って描くのが大まかな主流であった中、この作品はあくまで自作でおり、ジェリコーの力の入れこみ具合が伺えます。

そう、この作品が現代で評価されているのは、絵画としての技術の他に当時のフランス政府を非難した「ジャーナリズム」という要素こそが魅力のひとつでもあるのです。

作品を敢えて強い嘘の描写まで入れて、サロン(フランスのリアルpixivみたいなもんだと思って下さい)に出した理由を考えても絶対的な答えはないかもしれませんがジェリコーが、なんとしてでも社会に対して絵画で「ジャーナリズム」という熱意をこの大作にぶつけたのは事実です。

誰かに何か言われるであろう、非難されるであろうことは確実。言論の自由など保証されていなかった時代にも関わらず。しかしそれでもサロンに出すため、古典主義を貫き、必ず言われるであろう保守派評論家の

「単にセンセーショナルを狙っただけの作品」

を跳ね返そうとした、努力。

現代のITメディアの移り変わり、デザイナー置き換えて考えると、ちょっと感慨深いと思いませんか。

「何か新しいことをやろうとする」
「必ず批判者が出てくることは確実」
「それでも従来の手法、積み重ねてきた技術に敬意を払い、新しいことを貫く」

私はこのメデューサ号の筏(いかだ)という作品には、今、業界にとって大切なメッセージが秘められているように思えます。人間、どの時代に生きてようが、人間です。考えること、歩むことに大差はありません。

歴史から、今の自分や社会を紐解いて味方につけるのも、良い手法の一つでしょう。

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