「理解」の成立には、説明をする側と、それを受ける側の協力関係が欠かせません。
話し手は必要な情報を揃え、筋道を立て、然るべき順序を追って説明を行う。
同時に聞き手は、相手の説明をよく聞き、不明瞭な部分については質問を行い、基礎的な知識や用語については必要に応じて勉強をする。
正しい「理解」とは、こうした双方の努力があって初めてたどりつけるものだったはずです。
しかし現在では、モノゴトを理解するために必要な負担・労力が、「分かりやすさ」という錦の御旗のもと、説明をする側だけに押し付けられてはいないでしょうか。
そのような状況においては、「品質は高いが説明が下手なもの」は軽視され、逆に「品質は低いが説明が上手いもの」が高い評価を受ける、という傾向が強くなります。
そうなれば、技術を磨き工夫を凝らして良いモノを作るよりも、手を抜いてテキトウ (「適当」ではない) なモノを作り、その分のコストを広告や宣伝に回すような商売の仕方により大きなインセンティブが掛かることなるでしょう。
しかし、そうした「見た目だけ」の商品が出回る社会は、良いモノを買いたい消費者にとっても、良いモノを作りたい技術者にとっても、決して望ましいものではないはずです。