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本物とは何か

beko

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自分が作ったソフトウェアやサービスなどを、他人に理解し、使ってもらおうとするならば、それについてきちんとした説明をすることが必要です。
特に、一般ユーザ向けの説明であれば、専門用語の回避、細部の省略、グラフ・図の多用などといった、分かりやすさのための工夫が欠かせません。
競合するの商品との差別化を図るため、パッと見で興味を惹くことができるような個性的・奇抜なデザイン、あるいは多少の誇張やイメージの演出などといった行為が求められる場合もあります。 そうした「分かりやすい」説明を行うことは、自分たちの知識・技術を商品として提示し、売る立場にある技術者にとっても必須のスキルだと言えるでしょう。
しかし、その一方で、私はこの「分かりやすさ」を強く求める社会のあり方に、少なからぬ不安を抱いています。

「理解」の成立には、説明をする側と、それを受ける側の協力関係が欠かせません。
話し手は必要な情報を揃え、筋道を立て、然るべき順序を追って説明を行う。
同時に聞き手は、相手の説明をよく聞き、不明瞭な部分については質問を行い、基礎的な知識や用語については必要に応じて勉強をする。
正しい「理解」とは、こうした双方の努力があって初めてたどりつけるものだったはずです。
しかし現在では、モノゴトを理解するために必要な負担・労力が、「分かりやすさ」という錦の御旗のもと、説明をする側だけに押し付けられてはいないでしょうか。

そのような状況においては、「品質は高いが説明が下手なもの」は軽視され、逆に「品質は低いが説明が上手いもの」が高い評価を受ける、という傾向が強くなります。
そうなれば、技術を磨き工夫を凝らして良いモノを作るよりも、手を抜いてテキトウ (「適当」ではない) なモノを作り、その分のコストを広告や宣伝に回すような商売の仕方により大きなインセンティブが掛かることなるでしょう。
しかし、そうした「見た目だけ」の商品が出回る社会は、良いモノを買いたい消費者にとっても、良いモノを作りたい技術者にとっても、決して望ましいものではないはずです。

個人的には、そうした表面的な「分かりやすさ」ばかりを持て囃すような風潮が理系離れの遠因となっているのではないかと愚考するわけですが、そこまではさすがに穿ち過ぎでしょうか。

成田 (「三行で」とか言うな。)

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