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Eyes, JAPAN のキャッチコピーは「魔法と区別がつかない技術」ですが、これは以下に引用する「クラークの三法則」の第三法則に由来します。
Any sufficiently advanced technology is indistinguishable from magic.
(高度に発達した技術は魔法と区別がつかない。)
近年の映像・音声認識技術の向上や、様々な入力デバイス (タッチパネル, リモートコントローラなど) の普及によって、エンドユーザ層がこれまで抱いていた「コンピュータはとっつきにくいもの」という認識は急速に緩和されているように観察されます。
こうした社会の流れの中にあって、「技術」はその原理や本質をブラックボックスの内部に隠蔽していき、魔法としての装いを強めてきました。
世の中に魔法が満ち溢れ、誰もそれを不思議とは思わない社会は、もはやSFでもファンタジーでもなく、実現のものとなりつつあると言えるでしょう。
とは云え、現実には魔法などというものが存在しないということは、皆様もご存知の通り。
あらゆるモノゴトの振る舞いが例外なく (私たち人間さえも) 物理法則によって支配されている以上、どんな魔法にも必ずタネと仕掛けがあります。
「魔法に見えること」と「魔法であること」は、決してイコールではありません。
……などと言うと、「何を当たり前なことを」と思う方も多いのではないでしょうか。
「私たちの社会は、『魔法』というのは、あくまで『高度に発達した技術』の比喩にすぎないことを認識できている」と。
しかしながら、私個人としては、そうした感覚・認識が希薄化し、技術と魔法の乖離が相当に深刻なものとなっていると感じています。
技術の発達に伴い、各種の製品, サービスを利用するにあたって「消費者」に課される要求 (勉強すべきこと, 気を付けるべきこと) の水準はどんどん下がっています。
これはもちろん、技術が目指すべき方向性であることに間違いはありません。
その一方で、そうした技術を支える「生産者」に求められる知識・技術の水準は、これまた際限なく上がり続けています。
さて、この二つの要求水準の間のギャップの増大は、私たちの社会にどのような影響をもたらすでしょう。
我々の身の回りから自然が消え、人工物があふれるようになった。
そして、人々はそうした人工物を、原理を理解することなく魔法のように使う。
自然科学の知識はもはや必要なく、人工物を魔法のように使いこなす知識だけでよいようになった。
人々が、魔法を使う側でいることに慣れてしまって、魔法を研究する側にやってこようとしない。
魔法を使うことと魔法を研究することの区別がついていないからだ。
パソコンやケータイをいかに使いこなそうと、パソコンやケータイの仕組みを知っていることにはならない。
子供や学生であるうちは、人は一方的にサービスの受け手側でいることができます。
魔法を魔法として使いこなすことさえ出来れば、科学の知識や数学の理論を身につけなくても、生活をしていく上では何の不自由もありません。
しかし、学校を卒業して社会人となり、サービスを提供する側に立ったときから、自分たちが使っていたものよりもさらに高度な魔法を自らの手で生み出すことを要求されることになります。
このギャップの大きさは、想像を絶するものがあります。
そして、このギャップは今このときにおいても、確実にその幅を増しつつあるのです。
現在、IT業界に限らず、「ものづくり」の現場では、空前の技術者不足が起きています。
多分に主観が入りますが、私の見るところでは、モノを作るために必要な知識や技術をきちんと身につけているのは、50歳よりも上の人たちまで。
これよりも若い世代になると、少数のエキスパートが散在してはいるものの、層の厚さ・広さといった点では及ぶべくもない、と感じています。
そして、これまで社会の基盤を支えてきた彼らのような技術者はあと数年で退職し、一線から姿を消してしまうでしょう。
そうなったとき、私たちの世代は果たして、その技術を受け継ぎ・発展させてくことができるのでしょうか?
Eyes, JAPAN も例に漏れず、このギャップとの対峙を余儀なくされています。
知識・技術を、如何にして (魔法化せずに) に学び、伝えていくか。
魔法を使う側から、魔法を創る側へ踏み出そうとする人に、どのような手助けができるか。
そうした問題への取り組みが、Eyes, JAPAN あるは私個人のこれからの課題となるのではないか、と考えています。