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Words describe you again, and again

narita

この記事は1年以上前に書かれたもので、内容が古い可能性がありますのでご注意ください。

近年の Facebook, Twitter に代表される SNS (Social Networking Service) の勢力拡大には目覚しいものがありますね。
周囲を見渡してみても、これらのサービスのアカウントを保有していない人を探す方が大変なほど。
以前、ブログによってインターネット上の「発信者」の数が激増したという話 (参照: 議論の仕方) をしましたが、SNSによってこの増加に拍車が掛かったように思われます。

ところで、これほど多くの人々が情報を発信するようになったことで、インターネットがどう変わったかと改めて考えてみると、私が期待していたのとはだいぶ違った方向へ進んでいるように思えます。
と言うのは、その内容には特に意味のない、「発信者」同士の関係を表すためのだけの情報が、ネット上で交換されるデータの大部分を占めているように観察されるからです。
特にその傾向が強いのが Twitter で、リツイート (Retweet) と呼ばれる機能により、他のユーザの投稿内容を自分の投稿に引用するということが頻繁に行われています。
これは、ユーザの関心が「何を語るか」「何が語られているか」よりも、「誰が言ったか」「誰がそれを読んだか」に向けられていることを示すものでしょう。
もっとも、それがソーシャル・ネットワークの本質であるわけなのですが、個人的には色々な人の多様な考え・意見が読めるようになると期待していたので、ちょっと残念に感じてしまうのかもしれません。

ところで、この頃のネットでは引用が多くなったから、自分の意見を語るまえに、どこかから引用をしようとする。
自分の意見を持たない者も増えた。
「誰某がこんなこと言っているらしいけれど、どうよ?」
「ああ、それなら、こんなこと言っていた奴もいるみたいだよ」
というリンク先を交換するだけで意見交換をしていない。
しかも、原典まで辿らず、伝聞だけの「噂話」に終始する。
こういった情報のシェアが、「親切」の一種だという価値観が生まれたように見えるが、たぶん、昔からあったことだろう。

実は、ネット上に限らず、現実空間における人との係わり合いにおいてもこうした傾向を感じています。
人間は普通、課題や仕事に取り組んだり、本を読んだりすれば、それらに対して何らかの感想や、自分なりの意見を持つのではないでしょうか。
しかし、そうした意見や感想を持たない、あるいはそれを自分の言葉で表現しない・できない人が非常に多いのです。
見たもの・やったことを淡々と説明したり、それに関連するこんな記事を読んだという「事実」の説明はできるのですが、「それについてあなたはどう感じた・考えたか」を尋ねられると、途端に言葉に詰まってしまうというケースが頻繁に観察されます。

意外に思われるかも知れませんが、特にITの分野では、仕事をする上で自分なりの考え・意見を持つこと、それを表現することは非常に重要な意味を持ちます。
何故ならば、客観的な事実の記録や、外部の情報への接続 (リンク) などの行為は、コンピュータによってほぼ完全に賄われてしまうからです。(参照: 思考の価値)
人間を遥かに凌ぐ記憶精度・容量と演算速度をもつコンピュータによって稼動するシステムの中にあって、それでも人間をそこで働かせる必要があるのは、こうした人間が持つ経験や勘 (と呼ばれるもの) や、そこから生まれるデータ化できないノウハウ、即ち、個人的な考えと判断が不可欠だからに他なりません。
「主観的なものの見方は、ビジネスにおいて害悪である」という考え方は、必ずしも正しくないのです。

そしてまた、そうした考え・意見を、自分の言葉で、他人に分かるように伝えるということも大切。
これをやらずにいると、知らず知らずのうちに「考えること」自体ができなくなってしまいます。
「いざとなればできる」なんて思っていても、普段からある程度の運動をしていないと、実際に走ってみたときに想像以上に身体が鈍っていてびっくりするのに似ているかも知れません。
体重計を気にするのも結構ですが、脳メタボにもご用心、です。

担当: 成田 (書くことは考えること)

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